京都観光史跡ss0701

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京都の観光 近くの史跡 ss0701

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▼下は京都市中京区木屋町通六角下ル東側の建物の角に掲示されているパネル(右の写真)の文章をそのまま書き写しています。
此付近 坂本龍馬妻 お龍 独身時代 寓居跡
 坂本龍馬の妻となるお龍(りょう)(鞆(とも))は、青蓮院宮(しょうれんいんのみや)に仕える医師楢崎将作(ならざきしょうさく)・貞(てい)の長女でした。京都柳馬場三条下ル東側に住んでいましたが、文久(ぶんきゅう)2年(1862)6月20日、不幸がおきます。父の死去です。このため母・妹・弟をふくむ6人の遺族は困窮し、「京都の木屋町」もしくは「四条、うら通りの借家」に移住します。
 こののち一家は離散し、お龍(鞆)は単身七条新地の扇岩(おうぎいわ)なる店に入ります。母と妹君江(きみえ)は、洛東大仏南門前(らくとうだいぶつみなみもんまえ)(現東山区本瓦町付近)の河原屋五兵衛(かわらやごへい)(五郎兵衛(ごろべい))隠居所の土佐亡命志士(とさぼうめいしし)の居所に住み込みで働きました。その縁で龍馬とお龍(鞆)は出会うことになります。木屋町の住居は、その直前まで住んでいた地として無視できません。
 というのも、龍馬の書翰に記載されたお龍(鞆)の個性を知るエピソードに、妹光枝が悪い輩(やから)にだまされて大坂(おおさか)の遊郭に連れて行かれたが、彼女が単身乗り込み、ついに連れ戻すというものがあります。それが木屋町時代のことです。正確な位置は不明ですが、龍馬が「まことにおもしろき女」と愛したお龍(鞆)のゆかりの地として、ここ木屋町通に建碑するものです。
 なお龍馬やその終焉地(しゅうえんち)の主人近江屋新助(おうみやしんすけ)とも交流のあった、滋賀県知事や京都府知事を歴任する中井弘(なかいひろむ)も、中井弘蔵(なかいこうぞう)や田中幸助(たなかこうすけ)と名乗った幕末当時、木屋町の近江屋喜一郎(おうみやきいちろう)の2階に寄宿していました。あわせて顕彰します。
 歴史地理研究者 中村武生
▲上の説明パネルが掲示されている場所:京都市中京区木屋町通六角下る東側の建物の角

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お龍独身時代碑1

お龍独身時代碑2